走って歩いてサボってまた歩く。
終わりというものは突然やってくるもので、例に漏れず僕もサッカー”選手“のキャリアの終わりは突然現れた。
正直あまり覚えていない。
微かな記憶を頼りに振り返る。
2023年11月7日。
平日のフットボールセンター。
いつもとは違う時間と場所ではありながら、いつもと変わらないピッチの上で、いつも通りにボールを追いかけ、相手からボールを奪いに行く。
きっと周りから見たらいつもと変わらない当たり前の光景だったが、あの瞬間の僕の頭の中は2年前の記憶がフラッシュバックし、音が鳴らないのに激痛が走る感覚は、今まで忘れていたあの日を思い出すにはもう十分だった。
そして、全てを悟った。もうプレーはできないと。
考えてみればあの日以来、無意識下で色々なものをセーブしていた。それは間違いなく恐怖心からくるもので、再発の怖さ、歩くことができなくなる日々の怖さ、そしてそれを耐えもう一度ピッチに立てる自信を持つことができないという怖さ。
頑張りたくても頑張れない。
今思えば全て自分本位の言い訳で一緒にプレーした選手には失礼だった。
そして何より受け入れがたかったのは、たったこの程度の恐怖に向き合えない自分の惨めさで、向き合うこと辛さから逃げていたこと。
こうなることは必然だったと思う。
少しだけ不幸中の幸いだったなと感じる事は、この最後の日を、最初の日から見守ってくれていた両親がこのキャリアの終わりの日を看取ってくれていたこと。
本当に色々あった。シーズン途中に来年はプレーをしないかもしれないと伝えた時、きっとどこか寂しい思いをさせていたと思う。電話越しだったが、なんとなく伝わっていた。それでも決断を尊重していつもと同じように接してくれた。
そして設定していたタイムリミットよりも早く最後の日を迎えてしまったが、そこに両親が立ち会ってくれたことくれていた事もまた、運命の悪戯のように思う。
今でも高校3年時の選手権でPKの末敗れた後、学校で話した言葉と涙は鮮明に覚えている。あの学校での出来事は僕が恩返しをサッカーでしたい理由の一つ。
サッカーでいつか見たことのない舞台に連れて行ってあげれるよう精進します。
本当に感謝しかありません。
そして、少し時は流れた。
現在、僕は学生スタッフとしてB2カテゴリーを任せてもらっている。
いつか指導者になりたい。
そんな将来の絵を頭に朧げに描いていた。
そのために、部署活動ではテクニカル部に所属し、多くの経験と勉強を実践の中で培った。甲斐あって、少しずつ想像は現実のものとなってきて、3年次に当時まだ選手であった僕を福岡国体でテクニカルスタッフとして帯同させていただいた。今まで知らなかったスタッフとしての裏側の酸いも甘いそこでやっと気づくことができた。
村山コーチにはこんな僕をチームに迎え入れてくれて本当に感謝しています。ピッチ内外で村山コーチの元で過ごしたあの1ヶ月は僕にとってかけがえのない時間でした。あの経験が無ければ、指導者としてのスタートに立つ勇気は出なかったと思います。
ありがとうございました。
そして、トップチームの活動にもスタッフとして数回、そして遠征まで関わらせてもらう機会も頂きました。
ピンチヒッターではありましたが、選手ではなく、スタッフとして福大のエンブレムを背負うことはまた違った重みがあり、経験のない僕はずっとソワソワしていた事を思い出します。あの感情はいつになっても忘れてはいけない、そう思っています。
これらの出来事は僕には勿体無いくらい貴重で、濃い経験だった。
運が良かった。つくづくそう思う。
このような経験があったから、4年で学生スタッフになるといった決断を下すことができたのだと今では思える。
そして先日、ふと小学校の文集を読んだ。そこには将来の夢とその道筋が細かく記してあった。恥ずかしげもなく、堂々と。潔いくらいに。
ただ、純粋でまっすぐな夢。
しかし、何一つ達成していない。何一つ。笑えるほどに。
そしてその夢はきっと叶えられない。
このままなら。
どうすればあの頃の思いを形にできるのか。
考えた末に導き出されたものは変えること。あの頃大事にしたかったものだけを残して。
あの頃描いていた最後の場所は選手ではきっと辿り着けないものだった。
ただその場所は選手以外の道もある。それに今なら気づける。
理想のレールで辿り着けなくたっていい。
長い時間の中で自分のレールで到達したい。
今は心からそう思う。
しっかり芯をもつ。それができれば変わることは悪いことじゃない。
どんな形でも今では大した問題ではなくなった。
今と昔では将来のことに対して思う強さも価値観もそこに捧げたいもの全てが変わった。
僕にとってそこは特別な場所。それだけは今も昔もこれからもきっと変わらない。
辿り着きたいし、いってみたい。心から思う。
違う形でもいい。憧れの場所に自分の力でそこに立つまで進み続ける。
そして僕は指導者になった。
選手より、これからはもっと長い。
指導者はとても息が長い世界。
その分厳しい世界だと思う。
でもその門を叩いた。開いた。
今は全力でこのチームに向き合いたい。
そして開いた道のスタートとして、目の前のチームのみんなと一緒目標を達成したい。
きっと本意じゃない選手もたくさんいるはず。
僕たちは指導者1年目で、選手は10年とそれ以上だ。何か思っていても仕方がない。
それでも、何者でもない僕たちについてきてくれている。
そんな選手たちにただの何もない1年にしてほしくない。
この1年僕たちと一緒に戦えて良かったと思える1年しなくちゃいけない。
少なくともその責任があると僕たちは思っている。
だからできることは全部やる。それでも全然足りない。
できないことも沢山あるし、気づかないといけないことに気づけないこともあるけど、僕たちにしかできないこともきっとある。それが何かは分からないけど追い求めたい。
今回、選手日記という形で書かせてもらって、いとこの影響で始めたサッカーが僕にとっていつの間にかこんなに大切で大きなものになるとは思っていませんでした。
いつしかなくてはならないものになって、僕の生きる道標になっていたような気がします。
そんな事を思い出させてくれるとても貴重な機会を与えていただき感謝しています。
最後に
『意味を探すんじゃなく 僕が意味を与えられたら』
これは僕が敬愛するアーティストの歌詞の一節です。
僕たちは何事にも意味や正解、勝ち負けを求めています。それは正常な人間の営みでありながら、探求することによって自分たちを苦しめている気がしています。
人生に意味や答えなんてないけども、日々の積み重ねが少しずつ生き方になって、いずれ何者でもない何かに辿り着く。それが意味のように見えるがきっと意味はない。
ただその生き方、意味のない人生が誰かにとっては意味や生きる指針になったりするものなのかなと思います。
気負う必要はなく、僕たちは僕たちであることだけ忘れなければ、ただそれだけで十分なのです。
それだけできっと意味になります。
さて、長いようで短かった大学サッカーもラストイヤーになりました。
最後まで自分のペースで歩き、進んでいきたいと思います。
福岡大学サッカー部4年 小平渓太
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