最期の姿
今回選手日記を担当させていただきます。
福岡大学サッカー部1年の木原綾汰です。
「最期の姿」
なぜタイトルが最期の姿なのかは、最後まで日記を読んでいただければわかります。
サッカーに熱中し始めたのは、小学4年生の頃
「リフティング50回出来ないと練習に参加させない」というコーチの言葉からサッカーの練習を沢山するようになりました。
それから中学校は、鹿児島育英館中学校に入学し、高校は鹿児島城西高校に入学してサッカー漬けの毎日を過ごしてきました。
小、中ではスタメンで出る選手でしたが高校になるとやはり鹿児島の強豪である鹿児島城西のトップチームのスタメンで試合に出るということはなかなか難しいものでした。
思うような結果も出せず、2年生まではBチームにいる状況が続いていました。
しかし、トレーニングに励み、3年生になって試合に出るチャンスが巡ってきて、九州新人戦優勝、プリンスリーグ優勝、プレミアリーグ参入を決めた試合に多く関わることが出来ました。とても運が良かった高校3年間だと思います。
福大といえば、九州1サッカーが強い大学であるというイメージが強くありました。自分は、鹿児島城西で試合に出ていたスタメンの選手の中で比較的活躍する選手ではなかったため「自分が本当に福大でやれるのか」という不安と同時に、「福大でサッカーがしてみたい」という思いも湧き出てきました。
何故大学生まで、サッカーをしようと考えたかというと両親の影響がほとんどを占めていると思います。
高校3年時の公式戦は全て観に来てくれました。県外である試合も全て付いてきてくれました。また、試合で良かった時、悪かった時も常に支えてくれていました。
そして、大学生になり、これからもそれが続いていくと思っていました。
しかし、7月9日。
母は51歳という若さで天国に旅立ちました。
9年前、まだ小学生だった頃に母が癌になったことを伝えられた日のことは今でも鮮明に覚えています。
母が亡くなる前日に父から連絡があり、急いで新幹線で鹿児島に帰りました。
そこには、一か月前に会った母とは別人のように痩せて弱っている母の姿がありました。
両親は心配をかけたくなかったため、自分には最後まで状況を伝えていませんでした。
大丈夫?と声をかけると、母は「大丈夫!もっと長生きして綾汰のサッカーの試合をまだまだ観ないといけないから!」と声をかけてくれてくれました。
「綾汰ならやれば出来る」
母は常にこの言葉をかけてくれていました。
どんな時も支えてくれました。
最高の母親でした。
これからもっと自分のサッカーしている姿や
活躍している姿を見せたかった。
しかし、落ち込むことは母親は望んでいないと思います。生きたいという強い気持ちを母は最期に背中で見せてくれたこと、それが何よりも嬉しかったです。
これから最高の父、姉、弟、そして、天国で見守っている母の為にどんな大学生活を過ごすのか。
そして、どんなサッカー人生にするのか。
大きな壁を乗り越えた人間は成長する。
一歩ずつですが、これからも毎日一生懸命に頑張ります。
長くなりましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。
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