今回選手日記を担当させていただきます。福岡大学サッカー部2年の中尾元紀です。よろしくお願い致します。
「和して同ぜず」
私が小学生の時に印象に残っている言葉で大学生になった今でも好きな言葉になっています。
意味を簡単に説明すると、
「徳の高い人は、他人と協調はするけれど、だからといってむやみに同調するわけではない。
すなわち道理に外れたようなことや”主体性”を失うようなことはしない。」ということになります。
幼い頃の私はこの”主体性”が大きく欠落していました。というのも元々、私は周りと一緒に遊んだり、楽しい時間を共有することが好きな性格で、自分1人で何かをすることよりも周りのみんなと協力して成功した時の喜びを味わうのが好きなタイプです。
そうです、いわゆる”THE 日本人的”な集団行動を好むタイプです。
ですから周りに流されるなんてことは当たり前、自分の考えを持つことすらなかったような気がします。
ここまでを読んで、私と今まで一緒にサッカーをしてきた人は驚くのではないでしょうか。なぜなら今の私は全く逆の人間に映るでしょうから。
かつての自分は一体どこに行ってしまったのか。どこにも行ってません。ただ、サッカーというスポーツが私を大きく変えてしまった。
サッカーがというか、スポーツが。もっと言うと、自分が1番熱中できてこれだけは譲れないっていう目標のあるものが私を大きく変えました。
サッカーを始めてから、競争の世界で自分がどうすれば勝てるのか、現状を変えるにはなにが必要なのかを考えるようになりました。自分で考えるだけでなく、サッカーを通して色々な経験や思考に触れ、気づかぬうちに自分のサッカー選手としての軸が形成されました。それはサッカー以外の場面でも発揮され、いつの間にか「人間中尾元紀」としての太い軸ができていました。
少し話は変わりますが、大学生になってから
「サッカーをやる意味とは?」
という問いをされることが多く、人生設計について考えることが増えました。
私は自分がサッカーをやっていなくても幸せにはなれると思っています。というかむしろサッカーをやっていない方が幸せになれるかもしれません。
勉強は最低限するとして、好きなスポーツは趣味として楽しく行う。20歳になったらお酒を飲んで夜中まで友達と楽しい時間を過ごす。十分幸せですよね。大学生の半数以上がそのような生活をしていると思います。もちろん私の友達にもたくさんそのような人はいますし、友達の話を聞くと大学生活を謳歌しているなと感じます。
ではなぜ、苦しい思いをしてまでサッカーをする必要があるのか。そんな辛い思いしなくても幸せな時間を送れるじゃないか。
結論は言い方は悪いですが、私はそんな簡単に手に入る幸せなど全く興味がなく、ごく僅かな人にしか手にすることができない幸せにしか価値を感じないのです。だから苦しいとか辛いとか楽とかそんなの関係なくて自分が目指している所に行くために必要なことをするだけです。
人生という大きな中でサッカーをする意味とすれば「自分に対するチャレンジ、自分に限界を設けず、新しい自分に生まれ変わるために必要なこと」と答えます。サッカーはチャレンジするための手段であると同時に矛盾するようですが、人生の最大の目標でもあるということは自信を持って言えます。
まとまりのない日記になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。日記を書いている内にもっと書きたいことが出てきてしまいましたが、また次の機会に書くことにします。これからも福岡大学サッカー部を応援よろしくお願い致します。
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